伝統・文化

リトアニア観光スポット「血の日曜日事件」が分かる国会議事堂広場の人のバリケード跡

こんにちは。ヨウヘイ(プロフィール)です。

今回はリトアニアの歴史に関係する観光スポットのご紹介と、その歴史背景についてのご説明です。
リトアニアといえば過去何度もお伝えした通り、1991年にソ連から独立をしてまだ30年も経っていない国です。

現在では日本からの観光客も増え、EUの一国として成長を続けているリトアニアですが、独立時には今の姿からは想像できないような悲惨な状況が続いていました。

今回ご紹介する施設は、そんな時代の空気が感じられる場所となっていて世界史が好きな方やリトアニアという国の歩みについて興味のある方にはぜひ一度訪れて欲しい場所となっています。

目次

ビリニュス国会議事堂前バリケード

リトアニアの国会議事堂は、ビリニュス旧市街地から徒歩15分ほどの場所にあり、その国会議事堂の広場の中には下記写真のような少し小さな建物が併設されています。

国会広場の中にガラス張りの小さな展示場がある

この周辺には国立図書館や国立劇場があるなど、主に公的機関の集まる場所となっているため、旧市街地から徒歩圏内にあるといってもあまり観光客の賑わう場所ではないように感じます。

国会議事堂のすぐ横にあるリトアニア国立図書館

しかし、この場所はソ連から独立をする際にリトアニア市民とソ連政府が占有権を争って紛争が起こった場所となっていて、リトアニアの近代史を語る上ではとても重要な場所とされています。

1940年初頭より続いたソ連政府によるリトアニア侵略は、当時のゴルバチョフ政権によるペレストロイカやグラスノスチなどの政策や、リトアニア国内で結成された政治組織「サユディス」の影響により、1980年代後半頃から次第に支配力が失われるようになってきました。

そして、国内でもリトアニア独立の機運が高まってきた1991年1月、ついにソ連軍とリトアニア市民がこの国会広場で衝突することとなりました。
独立を阻止したいソ連軍は、リトアニアの重要拠点であるこの国会とテレビ塔の2箇所に集まるリトアニア市民の制圧に動き、その際に抵抗した非武装のリトアニア人がソ連軍により13人が銃殺、他にも数百人が負傷を追うことになります。

これが「リトアニアの血の日曜日事件」と言われる事件です。

国会広場の前に集まる当時のリトアニア人

「血の日曜日事件」に至るまでのリトアニア史

血の日曜日事件とはリトアニア以外にも、世界で起こった悲惨な事件によく付けられる名称ですが、1991年にリトアニアで発生したこの事件も当時世界中で報道され、悲惨な事件として歴史に名を残すこととなりました。

事件発生前年の1990年3月はリトアニア共和国はソ連からの独立を宣言しており、この時代は連邦維持を主張するソ連共産党の保守派や軍部とリトアニア市民との間ではかなり緊迫した時期が続きました。

また、1988年にリトアニアの自治を確立することを目的に設立された政治組織「サユディス」は、1990年のリトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議選挙で大勝利を収めており、リトアニア国内ではソ連への反発、自国の独立を強く願う人たちが増えてきている時期でもありました。

つまり、ソ連からするとリトアニア市民から出てくる独立への機運を止めることができず、かなり歯がゆい状況だったことが推測できます。
そして、そういった市民の意見が集約される国会議事堂や情報を発信するメディアの元となるテレビ塔の制圧を試みることに繋がっていきました。

ソ連軍の戦車の前に無抵抗で立ちはだかるリトアニア人

一方、ソ連からの制圧を拒むリトアニア人たちは、1991年1月12日の深夜にテレビ塔と国会議事堂周辺に集まり、人によるバリケードを作ることになりました。

そして、両者が衝突することとなった1991年1月13日の早朝、ソ連軍はKGB特殊部隊のアルファ部隊と呼ばれるテロ対策、国家施設の奪取を目的とした軍事専門集団を国会議事堂とテレビ塔に向かわせ、現地で武器を持たず自治権を主張するリトアニア市民に対して銃撃を行ったとされています。

リトアニアの国旗やプラカードを焼きはらうソ連軍のKGB部隊

事件では、ソ連兵から銃殺された13名とは別に、現場に居合わせ心臓発作で亡くなった方が1名、さらにソ連兵が同じソ連兵に発砲して1名の合計15名がこの事件で亡くなっています

事件後のリトアニア

事件発生から2日後の1月15日にはリトアニア国内で犠牲者の国葬が行われました。
そしてこの事件を受け、よりリトアニア国内での独立機運は高まることとなり、リトアニア政府はソ連に対する態度を硬化させることとなりました。

その後、1991年2月には世界に先駆けてアイスランドがリトアニアの独立を承認し、同年8月にソビエト連邦構成国の権限を拡大しようとしたゴルバチョフ大統領に対するクーデターがモスクワで失敗に終わったことにより、1991年9月17日にリトアニアの独立をソ連も承認することになりました。

また同日に、バルト三国のエストニア、ラトビアの独立も承認され、各国とも現在に至るまで独立国としてヨーロッパ内で成長を続けているところです。

事件当日使われたソ連軍に対するメッセージの書かれたコンクリート壁

まとめ

いかがでしたか?
今回は現在の平和なリトアニアからはあまりイメージのできない、独立時の悲しい歴史が感じられる場所のご紹介でした。

観光でリトアニアを訪れる方は、ヨーロッパ調の街並みを見て楽しい時間を過ごされる方が多いと思いますが、こういった場所でリトアニアという国の歴史を感じてみると、よりこの国の理解が深まるのではないでしょうか。

テレビ塔には同事件の犠牲者を慰霊する記念碑も建てられているので、ご興味がある方はこちらも合わせて見学することをオススメします。