伝統・文化

リトアニア観光情報 – ビリニュス大聖堂(カテドラル)の歴史と見所について解説します

こんにちは。ヨウヘイ(プロフィール)です。

今回はリトアニア観光で訪れる方は、必ずといって良いほど立ち寄るであろう「ビリニュス大聖堂」についてお話ししたいと思います。ビリニュス大聖堂とは、旧市街地の中心に位置するカトリック教会です。

古典的で壮大な外観を見せるビリニュス大聖堂

リトアニアは元々カトリック教だったわけではなく、かつては多神教として自然崇拝を信仰する人がほとんどでしたが、1251年に十字軍の弾圧から逃れるために当時のミンダウガス王がカトリックに改宗することになりました。

しかし、それは弾圧から逃れるための改宗であったと言われており、当時のリトアニア人にとっては、まだ多神教を信仰する人が多かったようです。

そこで今回は、現在のビリニュス大聖堂がどのようにしてでき、リトアニアの宗教がどのように変化してきたかについてお話ししたいと思います。

目次

カテドラル「ビリニュス大聖堂」とは?

ビリニュス大聖堂は「カテドラル」と呼ばれることがありますが、これはフランス語で「大聖堂」という意味です。そして大聖堂の意味は、カトリック教区の中心となる教会の聖堂の呼び名で、カトリックを信仰している人にとっては教会の中心地としてとても大切にされている場所です。

クリスマスには綺麗にライトアップされる

リトアニアの宗教史としては、十字軍の弾圧を受ける1251年前までは多神教であるリトアニア自然教を信仰していて、現在のビリニュス大聖堂の場所には雷神を祀る神殿があったと伝えられています。

そしてミンダウガス大公がカトリックに改宗した際に、その場所にカトリック教会を建設したものの、ミンダウガス王死語には以前の多神教信仰に戻ることになりました。

その後約100年間は、それまで信仰していたリトアニアの多神教信仰が続くことになりますが、1397年、リトアニア大公国のヨガイラ大公がリトアニアとポーランドの合併に伴い再度、国教をカトリックに改宗することしました。

そして、そのヨガライ大公の従兄弟にあたるビタウタス大公はミンダウガス時代に建設した教会をゴシック様式に変更し、それがビリニュス大聖堂の元の姿となっています。

しかしその後、火災などの被害を受けており1783年〜1801年に行われた大規模な改修によって現在のビリニュス大聖堂の姿となっています。外観はそれ以前とは全く異なるものとなりましたが、内装についてはビタウタス時代の面影を残していると言われています。

白を基調とした美しい内装が広がる

内装の説明

大聖堂の内部は、いくつかのスペースに分かれていて最も人気があるのがバロック様式で造られた聖カジミエルの礼拝所となっています。礼拝所にはいくつもの王の像や漆黒の彫刻や漆喰の上に色を塗ったフレスコ画が最大の見どころなっています。

カジミエル礼拝所の中には光が差し込む

ビリニュス大聖堂の中には合計11の礼拝所があり、その全てがとても美しく日本では感じられないような壮大な造りとなっています。天井からは光が差し込み、天気の良い日に行くと大聖堂の中は幻想的な空間に感じられると思います。

それぞれ雰囲気の異なる礼拝堂が見られます

また大聖堂に入り、背面側には大きなパイプオルガンがあり、タイミングによってはその綺麗な音色を聴くことができます。

巨大なパイプオルガンが飾られている

大聖堂では、現在でも日曜午前にミサが行われているので、その時間に訪問できる方はぜひ現地の雰囲気を感じてみるのも良いでしょう。ただし、その際にはお祈りをされている方などの迷惑にならないよう、カメラなどの撮影は控えるよう注意しましょう。

さらに、大聖堂の地下にはリトアニア大公国の歴代の大公や著名な貴族などが埋葬されていて、こちらを見学したい方は現地のツアーに頼むことで案内をしてもらえます。興味のある方はこちらも申し込んでみると良いでしょう。

大聖堂観光ツアー申込み

ソ連侵略時代の大聖堂

16世紀頃には、リトアニアはかつての多神教自然信仰から、ほぼカトリック信仰となっていましたが、19世紀に入るとロシア帝国やソ連からの弾圧によりカトリック教会の弾圧を受けることになります。

侵略の手を緩めることのないソ連は、リトアニアに対してロシア正教以外の宗教教育を認めず、カトリック信者も正教会へ改宗させるようになります。リトアニア国土の侵略のみならず信仰の弾圧も受け、当時の聖職者や信者は投獄、または処刑される人も多かったようです。

現在のリトアニアでの観光地として有名な「十字架の丘」は、こういった宗教弾圧による犠牲者を追悼する場所とも言われ、当時のリトアニア人にとっての抵抗運動の象徴とも言える場所となっています。

1961年と1975年にはソ連により、十字架の丘はトラクターで全て撤去され手しまいましたが、翌日になると犠牲者を悼むリトアニア人によって、また少しずつ十字架が建てられていったと言われています。

ソ連からの侵略に苦しむリトアニア人にとって、カトリックという宗教信仰は一種の独立への旗印的なポジションとなっていたようで、実際にリトアニア人が独立運動などを行う際には、ビリニュス大聖堂の広場に集い決起集会を行うことも多かったようです。

さらに、ソ連侵略時には大聖堂上部に飾られていた3聖人の彫刻像は強制的に撤去されていましたが、1991年の独立直後には再設置されることになりました。

頂上にそびえる3聖人の彫刻

まとめ

いかがでしたか?

今回は、リトアニア観光の目玉であり、現在のリトアニアの人々にとっても、とても重要な場所であるビリニュス大聖堂についてまとめてみました。

リトアニアの国の歴史とともに、変化を続けてきたビリニュス大聖堂をぜひ一度訪れてみてください。

ヨウヘイ
ヨウヘイ
単に訪問するよりもリトアニアの歴史も勉強してから行くとより面白いよ!
大聖堂中にはかつてのローマ教皇訪問記録も書いてある